おやつにハニワは入りますか?season2

今はハニワよりも土偶にハマっている。

震災の話①

2011年の3月11日。

今年で12年経つというのに、この時期になると気分がどこか暗いというか、鬱々とするというか。年齢を重ねるにつれてそれは悪化している気もする。きっと昔は人ごとだったのが、歳をとるにつれ感受性も育ち心の弱いところを締め付けるからでしょうか?

なので3月11日はできるだけテレビやSNSを見ないようにしている。ひっぱられるから。

かと言って呟くなとか言うわけではないし、むしろ事象の一つとして記憶してほしいとも思っています。

だからわたしもTwitter地震原発事故の話を定期的にしていますが、ほぼ毎回同じような話になるので、いっそのことブログにまとめてしまおうと思います。

 

まずは体験したことをだ〜っと書いていきます。色々と忘れてることもあるので、思い出したらその都度追記します。

 

3/11。

あの日は中学校の卒業式でした。福島県中通りで生まれ育ち、当時中学3年生で午前中は卒業式に出席していました。卒業証書を校長先生から学年全員が1人ずつ授与されるのですが、わたしは1組だったので早く終わってしまい、ひたすら席で授与を見ていました。暇でした。受け取った卒業証書は事前に配布されたリボンに通して丸めておくこと、と指示があったのですが、うっかり結んであったリボンをほどいてしまい、隣の子にリボンを結び直してもらった記憶があります。いやー、リボンが解けた時は手汗をめちゃくちゃかきました。

卒業式には母が出席していました。父は仕事。

さて、卒業式が終わり帰宅しました。同級生たちは午後は駅前のラウンドワンで遊ぶと。わたしも誘われたのですが、母に「絶対疲れるよ」と言われ断りました。今思えばこの判断はある意味正解だったのですが。

帰宅して昼食をとり、昼寝をしました。

 

2時46分。わたしは母と仲良く昼寝中でした。

この時わたしは部屋着にしていた中学校のジャージを、母は部屋着を着ていたと思います。

揺れで目を覚まし、ちょっと揺れが大きそうだと寝室からリビングに移動しました。この時リビングのテーブルに置いてあった眼鏡をかけました。母とわたしはどちらも眼鏡人間なので、視力がないとたちまち弱ります。さて、だんだん揺れが大きくなっていきます。流石にヤバいと思い始めます。わたしは座ったまま、母は壁に両手をつきわたしの方を向きながら揺れていました。緊急地震速報は、母のケータイが古くて対応しておらず鳴りませんでした。

強い揺れだと思いきや少し弱くなっていく兆しがありました。次の瞬間です。ドン!と再び強い揺れに襲われ、建物ごと揺さぶられました。この地震は、3回地震が起こったと言われてますが、その弱くなって強くなるところが2回目の地震が起こった時だったのかなと考えています。

家がマンションの最上階だったので、余計に揺さぶられ、命の危機を人生で初めて感じました。母は揺れで冷蔵庫が開いたのを目撃していて、庫内の電気が切れて停電したことを理解したと後で言っていました。

部屋にあるものが全部ひっくり返って。上からものが落ちてきて。埃まで落ちてきて。その埃がまってけむたくて。ただ揺さぶられていることしかできませんでした。

これまで体験した地震の中でも揺れがダントツで長く、このまま揺れっぱなしなんじゃないか、建物がダメになるんじゃないか、とにかく恐怖でいっぱいでした。揺れがおさまった後も埃と恐怖からの過呼吸でしばらく動けませんでした。

物が落ちて座っていたところ以外は物で埋め尽くされて歩くのもままなりませんでした。物を踏んづけて移動するしかありません。床なんて見えません。奇跡的にブラウン管テレビは落ちることなく割れることなく無事でしたが、CDコンポは正面から落っこちていて、それが原因なのかはわかりませんが、調子が悪くなりました。

その後の記憶はぼんやりしているので覚えていることを記します。

わたしは寝ていた和室に戻り、母は玄関までの道を確保するために物を片付け始めました。廊下に置いていたアルミラックも揺さぶられて骨組みが曲がり傾いていました。この間も余震が続きました。運が良かったのは和室に置いてあるタンスが倒れなかったことでした。靴下を履いたような気がします。

ただ、1日で片付けられるような状況ではありませんでした。ぐちゃぐちゃになり、電池やらラジオやら非常用のものがどこにあるのかわからない。母は携帯を持っていましたがガラケーで充電が貴重です。

そこで歩けるところに住んでいる祖父母の家に行くことにしました。上着を着て、最低限の持ち物で外に出ました。地震がきて20〜30分くらいかかっていると思います。

実はこの最低限の持ち物の中に、11日の夕飯で食べるためのカレーが入った鍋がありました。無事だったのでその後貴重な食料になりました。運が良かったです。

 

玄関を開けると目の前が水浸しになっていました。しかもすごい量が流れていく。はて?

原因はマンションの各部屋に置いてある給湯器。揺れで配管が割れて水が溢れていました。どうしようもないので、そのままにして地上におりました。エレベーターは止まっているので外階段で降りたのですが、その間も余震が続きます。とても怖かったです。

地上に降りると近所の人やマンションの人が集まっていました。ラジオを持っている人もいました。すこし落ち着いてきたので、県外の親戚に母とわたしが無事である旨をメールしましたが、それ以降は全く電波が繋がりませんでした。

宮城県沖地震じゃないか?という話が聞こえてきました。確かに定期的に起こってるし、大きい地震といえば宮城県沖地震かなあと思ってました。なのでこの時はそうなんだろうなあと思ってました。

 

さて、3月とはいえこの日は曇っていた上に寒かったので祖父母の家に向かうことにしました。向かう間、恐怖や不安を紛らわせるために母と話をした気がしますが全く記憶にありません。道すがら、通っていた小学校の前を通るのですが、ちょうど集団下校の集団と一緒になりました。たまたま中〜高学年の子たちと話すことになり、「卒業式の練習中に揺れた」「すごく怖かった」と言っていました。

そんなことを話していると、公園に同級生が3人くらいいました。「どこいくの?」と聞いてくるので「地震あったから祖父母の家に避難する!早く帰りなよ!」と返しましたが、地震?とピンときてなさそうで呑気にゲームをしてました。外にいると揺れがよくわからなかったのでしょうか。

 

さて、小学生たちと歩いていると雪がチラついてました。3月なのにチラつくなんて!びっくりしました。

小学生たちと別れ祖父母の家に着きました。祖父母は無事で元気にしていました。この家も荷物が多いので埋もれてないか心配してましたが普通でした。ただ、停電しガスが止まり、水もちょろちょろ(その後止まりました)になり、どんどん寒く暗くなっていきました。祖母はこの後のために米を炊いてました。

事情を話し、父には念のため無事であることと祖父母の家に来ていることをメールしましたが、これも届いたかよくわかりませんでした(その後無事に帰ってきました)。

さて、祖父母の家では暗くなる前に今後に備えて物資が発掘されていました。わたしはと言うとそこに座ってていいから!と放置されました。今思えば役に立たないからだと思いますが。

こたつと石油ストーブがあるので寒さと簡易的な調理は可能でした。

その後古いダブルCDラジカセ、乾電池、蝋燭が出てきました。ラジカセが動けば情報が手に入ります。ただ必要な乾電池が微妙に足りない…時計から拝借したり古いのか新しいのかわからないのを見つけたりしてなんとか必要数集まりました。そして無事に動きました。

 

祖父母の家の固定電話は普通の電話回線だったので停電しても電話が使えました。光電話だと電気ないと動かないのでダメなんだってさ。この電話が地味に役立った。

 

どのタイミングで聞かれたのか忘れてしまいましたが、祖母に「何か食べたいものある?」と聞かれました。この状態で何が作れるのかと思いましたが、わたしは「豚汁」と答えた気がします。母にはこんな時に…と飽きられた気がします。そしてあるだけの材料で完成し、食べる気になったので食べました。わたし以外は食べませんでした。多分いつもと違う状況で、お腹が空かなかったんだと思います。わたしもそこまで空いてなかったのですが、なんかやってないと落ち着かず食べるという行為を選択したというか。

 

電気が止まっているので熱源はないこたつと石油ストーブで暖をとりながら、ろうそくで明かりをとり、ラジオを流していました。夜になるにつれ、海外の電波が邪魔になり、定期的にNHK第一ラジオ福島のチャンネルを変えていました。ロシア語と中国語?韓国語?の記憶があります。

 

わたしが火に慣れていないのもあり、余震があるたびにろうそくを消してしまいだんだん母に飽きられていました。ですがやることもなく同じことしかしていないと慣れてくるもんです。火を消さなくても大丈夫になってきました。

 

22〜23時ごろに父が帰ってきました。母のケータイより、父のケータイの方が新しいので緊急地震速報が鳴ったそうです。なんだこれ!となったそうですが、車を止めたらすごい揺れに襲われたと言っていました。

 

父のケータイの方が充電があったので、ワンセグをちょっと見ました。画質がガビガビでよくわかりませんでしたが、おそらくNHKのヘリが撮影した津波がやってくる場面だったと思います。現実に起こったこととは思えず、ぼんやりと眺めていました。今はあの映像を見ると胸が苦しいです。

 

興奮していてその日はなかなか寝れませんでした。でもやることもない。ラジオを流しながら、こたつと毛布にくるまって横になることにしました。この時聞いたラジオの内容がいつまでも耳にこびりついて今でも離れません。

仙台市若林区の海岸に200名の遺体が発見されたとのことです」

 

その後判明した犠牲者数からすれば「たった」かもしれませんでしたが、この時には大きなショックを受ける数でした。

 

横になっている間にうとうと。終わりの見えない余震のせいで常に揺れている感覚になりながら寝ました。

 

3/12。

電気が復旧するまで、暗くなって寝る、明るくなって目が覚める、とても健康的な生活を過ごすことになります。

正直この日あたりから日にちの間隔がはっきりせず、何をしていたか覚えていない日もあります。個々の「〇〇をした」ということは覚えていても、それが何日なのかまでは覚えていないということです。日記をつければよかったのですが、そんな余裕も思いつくこともありませんでした。

 

特に何をやるでもなくぼーっとしていた?ラジオを聞いていたのかな?

親がマンションの様子を見にいき、非常用のポリタンクとガスコンロを取りに行く、という話をしていた気が。1日出かけていて、近くの公園の水道がチョロチョロ出ていたのでポリタンクに貯めたけどほとんど貯められなかった、とも言っていました。

この日に電気がついたのかも。ラジオで電気復旧の情報が流れ始めて、思いついた時に照明のスイッチを押していた。夕方に照明のスイッチをつけたらついた。喜んでテレビをつけたら福島第一原発が爆発した。後から調べると、これが第一原発一号機の水素爆発のようで。

 

13日?かな?市役所の支所で水の配給をするというので、両親がポリタンクや空きペットボトルを持っていきました。わたしも母と並びに行きました。2時間とか並ぶので、やることもなく、空を見ていました。たくさんのヘリコプターを見ました。支所にはごみ収集のスケジュールや新聞の号外も置いてあり、うちの市町村は初動が早いなあと思いました(他の自治体ではゴミ処理施設が被災してゴミ処理自体ストップしていたところもあった)。

祖父母宅の電気が復旧したので、マンションはどうかと確認しましたがまだ復旧してませんでした。なのでマンションの片付けは日中にしかできず。

その後復旧した時にお湯を沸かそうと電気コンロをつけたらブレーカーが落ち、地震の影響で電気コンロが壊れたことが判明して、母が多大なショックを受けていたことを思い出しました。

また、給湯器が壊れたのでしばらくお風呂に入れませんでした。

 

3/14。

テレビを見てたらまた原発が爆発した。

なんか最初の爆発よりやばそう、と思いました。

急に思い出しましたが、この時NHK教育Eテレ)では行方不明者の名簿がひっきりなしに流れていました。わたしに直接関係ある人はみんな無事でしたが、終わらない名前の羅列を眺めていて、この地震津波がすごいものだったと思いました。多分今はこういうリストを見たら即チャンネル変えると思いますが。

コミュニティFMや地元のラジオ局ではローカル情報が流れるので、ガソリンスタンドや休校のお知らせ、水の配給、災害ゴミ情報はそっちの方が早かったです。次第にテレビのL字でも流れるようになりましたが、特にガソリンスタンド情報はラジオでたくさん聞きました。

 

3/15。

たしか高校の合格発表日。テレビのL字で通常通り発表になると出ていたので見に行く気満々だったのだが、放射線の心配があるので担任が見にいき個々人に電話が来るシステムになった。悲しい。ちなみに非常連絡先を父のケータイにしていたのでいきなり電話が鳴ってびっくり。家族全員が非常連絡先を父の番号にしていたことを忘れていました。

そしてこの日、父の会社の関係でお風呂に入れることに。今や死語、モーテルのお風呂に入りました。時間が限られていてサッとしか入れませんでしたが、浴槽に変に光るライトがあったりして面白かったです。

そして全員がお風呂から上がるのを待っていたところ、父のケータイが鳴り担任から結果発表の連絡が。無事に合格していたのですが、モーテルで祖父母と両親にお祝いされるという絶対普通じゃない経験をしました。

合格手続きもあるので一度家に帰り、改めて高校へ。車のガソリンも少なくなってきたのでタクシーで行ったような…。あ、同じ高校に合格した友人とタクシー相乗りで行ったんだった。

高校へ行ったらこじんまりと合格者の番号が張り出されていて、同じクラスでは1人だけ落ちていて苦い顔になったのでした。

 

3/15以降。

爆発して放射線がー放射能がーという話になってきて、外にあんまり出るなという話になってきた。黒い雨が降る!という話もだんだん出てきまして。

 

高校合格したので制服の採寸に行かなきゃ行けないし、高校合格したらケータイを買ってもらえるとなっていたのでケータイショップに行きたい…他にも揃えるものはあるのに、そもそも外に出るなという。

そもそも物流も大混乱で物がなかったのですが。

制服が入学式に間に合うのか?ローファー売ってるのか?などなど。みんな非常時で理解してて意外となんとかなりましたが。

 

今になり振り返ると、呑気にポリタンクを持って水の配給待ちをしていた頃の空間放射線量が1時間あたり24マイクロシーベルトとかあったので、既に通常時より多くの放射線を浴びていたのでした。ちなみに標準的な線量は1時間あたり0.04マイクロシーベルトとかです。わたしとしてはこれは笑い話なんですが、人によっては笑えないんだろうなあ…。

 

一方で高校は校舎が使えなくなり入学式が4/20に変更になり、無事に制服は間に合いました。

入学早々GWを迎えることになるとは思いませんでしたが。

 

しかし、高校のシューズは入学後到着、ジャージは入学してから採寸になりました。この時に水着も買ったのですが、3年間一度も使いませんでした。えへへ、原発事故の影響ですね。そういえば体育の授業も最初はほぼなくて、あっても体育館だったような。

 

ケータイはたまたま機種だけ見るか〜と入ったところで在庫があり結構すんなり手に入りました。スマホ黎明期だったので、高1の時はガラケースマホが混在してました。

 

やることもなく、1日家でテレビをつけっぱなしになっているのでACのCMがうるさくなったり。ちなみに金子みすずの詩を使ったバージョンがありましたが、あの詩が高校受験の問題として出題されていました。わたしより母の方が先に気がついたんですがね。ははは。

 

そんなこんなで無事に高校生活をスタートしたわけですが、この後は原発事故の影響が強くなっていきます。なので震災の被害といえば原発事故、みたいな感じが福島県民には強いんですよね。なんせ影響が福島県全域にあるものですから。

 

おまけ

各民放テレビ局が通常放送に戻りつつある中、被災3県ということでなかなか通常放送に戻りませんでした。再開直後の嵐にしやがれはネットされず、被災者に向けたVTRがこっちで流れないってどういうことだよ!と思ったり。その代わりACのCMで嵐を見て、ああこういう公共的な仕事もやるようになるほど国民的になっちゃったんだなぁ、とか考えたり。

地震の後、電気をつけていないと寝られなかったりしたのですが、音楽を聴きながら寝ることもありました。その時にふと流したのが嵐の「僕が僕のすべて」です。当時は元気をもらうために聞いていたのですが、今では逆にこれを聞くとあの頃の経験を思い出して胸が苦しくなります。なのですっかり聴けなくなりました(笑)同じような理由で「果てない空」もあまり耳にしたくないです。

この時放送されていた相葉さん主演ドラマ「バーテンダー」も、当時は録画する手段もなく、Tverのようなものもなかったので、こっそりイヤホンをつけて見ていました。

 

地震を体感しすぎて、なんとなくの震度がわかるようになりました。

前の方にも書いたけど、常に揺れてる感じがする。ただ、これは心臓の音が揺れてるように感じているという話を聞いてから、揺れてない!心臓の音だ!と思うようになって、次第に消えていきました。

震度5くらいならまだ大丈夫とか思うくらいには、揺れに対する基準がガバガバに。震度6はダメです。家の中の物が吹っ飛ぶし、立っていられなくなるので。立っていられなくなると、ただただ揺さぶられるだけになります。

ちなみにNHK地震速報で「やや強い揺れ」と表示されたら最大震度が震度4、「強い揺れ」なら最大震度は震度5弱以上になります。

 

緊急地震速報も聞きすぎてうんざりしました。当時使用していたケータイは緊急地震速報の履歴が20件くらい遡れるのですが、2ヶ月以内の日付で埋まっていたこともあります。人が多いコンビニで鳴った時は時差でみんなのケータイが鳴り「またかよ〜」みたいな空気になりました。慣れって怖いですので皆さんは危機意識を持ってくださいね。

 

深夜に緊急地震速報が鳴り震度5弱とかの揺れに襲われると、地震に対してキレるようになります。揺れながら文句を言う母を何回見たことか。

そういえば強い揺れに襲われた時は落ち着いたらすぐ靴下を履く、というのも習慣になりました。特に2021年2月13日、2022年3月16日の地震では大震災の時と同じように、揺さぶられて家の中の物が落ちて吹っ飛んで、床一面に物がぶちまけられました。既に就寝していたので飛び起きました。落ち着いてから即「靴下履いて!」となり、ひとまずテレビのある部屋まで辿り着きましたが、素足で歩くより痛くない(それは当たり前)。

なお、2021年の時は買って4〜5年のテレビが倒れてお亡くなりになりました。SONYの薄型は耐震対策されてない。Panasonicは耐震対策されてるようです。

2022年の時は冷蔵庫の中の物がぶちまけられました。運悪く麦茶のポットが開いてしまい床に麦茶がこぼれた。さらにそこにわたしの足があったせいで、揺れながらだんだん足が濡れて冷たくなるという2次被害が発生しました。ちなみに両親はテレビを必死に守っていました。そりゃ1年でまた壊れたなんて言ったら最悪ですからね。

 

おしまい。